ハインリヒ・シェンカーの世界

ハインリヒ・シェンカー

ハインリヒ・シェンカー(Heinrich Schenker, 1868〜1935)は、ポーランド生まれ、オーストリアで活躍した音楽学者であり、 ヴィーンの音楽院でブルックナーに師事した後に、生涯在野の音楽教師として活躍した。 詳しい略歴については音楽家名鑑を参照されたい。 ここでは私なりの知識に基づいて、シェンカーを今敢えて研究する意義を、やや主観的に述べたい。

1. 序〜シェンカーの音楽界における位置〜
2. シェンカー没後の変質・忘失
3. シェンカー理論の支持者
4. 再吟味の必要性
1. 序〜シェンカーの音楽界における位置〜
シェンカーの理論が存命中から排撃を受けてきたことは、 シェンカーの理解者であろうとなかろうと、一様に認めるところではないか。 それはシェンカー理論の晦渋さのみに因があるのではなく、 シェンカー自身の排他的で唯我独尊的な態度が大いに影響していると考えられる。 このことはシェンカーの著作を少し読めば明白に看取できる。 例えば、最近出版された和訳書『ベートーヴェン 第五交響曲の分析』中において、 シェンカー以前の音楽家の楽曲解釈を排斥する過程で、 シェンカーが取った尊大で嘲笑的な態度を見るがいい。 シェンカーの著作態度は、自らが音楽界に親和するためには、あまりに無謀であった。
しかし、シェンカーが当時の音楽界で排撃を受けた様相を、 歴史的にも地理的にも隔たった我々が継承する必要は無い。 およそ、時の流れというものは、物事を客観的に見られるようにするものだ。 シェンカー理論がかつて受けるべくして排撃を受けたとしても、 今なら、そのような事情・先入観を除去して、 理論的本質に直接迫ってみせることは十分可能だろう。

2. シェンカー没後の変質・忘失
シェンカー理論が今なお存続している最大の地域は、アメリカである。 シェンカーの弟子の多くが先の大戦中にアメリカに亡命したからである。 事実、今なおシェンカーの著作の英訳書は現役の書籍として通用しているようで、 オンラインストアのアマゾンなどで検索してみても、 多くの著作が購入可能だ。 シェンカー理論の研究書も少なからず出版されている。 ただし、そこそこに根付くには到ったようだが、 理論的に重要な部分が変質したとされている点は看過されてはならない。詳しくは
秋岡陽の学会シンポジウム要旨を参照されたい。
ヨーロッパではシェンカー理論は遂に根付かなかったと判断するほうが正しいのではないか――― 私はドイツ・オーストリアを旅した際の経験からそう考えたい。 『和声法』のみに関しては、最近リプリントされたのか、専門店でしばしば見かけたが、 他の著作はほとんど見つからなかった。 ドイツ語原典の入手事情は、英訳書が簡単に手に入るのとは大いに異なっていた。 店員と話したら、「数十年前に亡くなった人物なのだから著作が絶版で当然」という態度だった。 どうやらシェンカーの著作が歴史的に埋没していくことに、何の疑問も持たれていないらしい。 現在では「過去の音楽学者」として扱われているようだ。
日本ではどうかというと、 未だ訳書は二点のみである。 うち一冊は『古典ピアノ 装飾音技法』というもので、シェンカー理論の中核に触れるものではない。 もう一冊は『第五交響曲の分析』で、これはシェンカー理論による楽曲分析書であるという点で重要なものである。 しかし、より核心的であり、シェンカー理解に不可欠なのは、 畢生の著作である『新音楽理論とファンタジー』であろう。 この『新音楽理論とファンタジー』は全三部からなり、和声法・対位法・自由作曲法という順で著述されている。 他の著作読解との関連という点から考えるとき、 自由作曲法は世に出たのがシェンカーの死後だからまだよいかもしれないが、 他の二部に関しては、 楽曲解釈書を読む前に一読し、 のちに独自の楽曲解釈の根拠となりゆく和声・対位法の理論体系を把握することが、 本来的には望まれることではないか。 シェンカーの著作の翻訳がもっと世に出ることを切に願う次第である。 ともかくも現状はこのようであり、 日本ではシェンカー研究も体系的な形ではほとんどなされてこなかったと判断してよいだろう。 無論、主著の訳書の存否でその国のシェンカー研究の水準が完全に判断されるものではないが、 少なくとも一つの判断基準とはなりうるだろう。 日本語訳書の少なさが、日本におけるシェンカーに対する興味の薄さを示していることは間違いない。

3. シェンカー理論の支持者
上に述べたような惨状は、一方でシェンカー理論に価値が無いことを暗示しているとも考えられるが、 他方ではシェンカーに師事した重要な音楽家は数多く存在するのも事実だ。 中でも有名なのは指揮者ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(1886〜1954)である。 フルトヴェングラーはニキシュの後任として、 1922年から死の年までベルリンフィルの常任指揮者の立場であった人物であり、 いわば20世紀前半のクラシック音楽界を象徴する人物といっていいだろう。 シェンカーがこのような指揮者に影響を与えたという事実だけでも、 シェンカー理論に歴史的埋没から救出するだけの価値を見出すことが可能だが、 支持者はフルトヴェングラーのみに決して留まるものではない。 私の知る限りの例を挙げるなら、 ロマン・ロラン、内田光子らが揃ってシェンカーの音楽理解を賞賛している。 フルトヴェングラーと関係の深かったヴァルター・リーツラーもシェンカー理論に深い理解を得ており、 しばしば賞賛の言葉を述べている。 中でも特に、リーツラーのシェンカー理論に対する理解は鋭いものがあり、 興味がある方は、氏の代表的著作である『ベートーヴェン』を参照されると良い。 シェンカーが第五交響曲の分析において示したことの意義付けに関してなど、実に興味深い。 また一方で、リーツラーはシェンカーに対しては批判を向ける時もあり、 とりわけシェンカー晩年に対してそうであるが、 いずれも偏見なくシェンカーの誤りを指摘している。 (無論そのこととリーツラーかシェンカーがいずれが正しいかは別問題であり、 その選択は我々の偏見なき批判に委ねられる。)
内田光子のシェンカー評は、
内田光子の指揮者論を参照されたい。 ロマン・ロランについては、例えば『第九交響曲』中にシェンカーに対する多くの賛辞を述べている。
(なお、付言しておくが、文学者ロマン・ロランはクラシック音楽に、 中でも特にベートーヴェンに深く傾倒していた。 ロランの著作の中には、ベートーヴェンに関するものが少なからず存在する。 ロランは、音楽についても語りえるだけの知識を持った人だったのである。 ただし、ロマン・ロランを純粋に「音楽家」として見てよいかという問題、 つまり、その著作は詩人の述懐として「文学的価値」を持つだけなのか、 あるいは音楽解釈・評論として「音楽的価値」をも併せ持つのかという問題は、 吟味を要するだろう。 ロマン・ロランの「音楽家」としての資質を疑う人間に、 ゲンリヒ・ネイガウスがいるらしい。 これは『ピアノ演奏芸術』中に述べられるらしいが、 私自身は未見である。 これに対してリーツラーは、 壮年期のロランについてはいくらか否定しつつも、 晩年に関しては完全に「音楽家」としての側面を認めているようである。)

4.再吟味の必要性
シェンカーが存命中には音楽界から嫌われ、 没後にはその理論が忘失及び変貌を遂げたことは、既に触れた。 そして、そういう大勢とは逆に、数少ないが芸術的に重要な支持者が存在することも、既に触れた。 これら二つの相反する事象は、果たしてどう理解されるべきか。
思うに、 シェンカーが歴史の忘却から救い出されるべき人物と見るほうが、やはり自然であろう。 一流の芸術家が、同時代人から誤解されたり、あるいは受容されなかったりすることは、 バッハ、モーツァルト等のことを考えれば、驚くに値しない歴史的悲劇である。 シェンカーもまた、同様の悲劇を蒙ったのだろう。 そもそも、優れた理論というのは、他の理論家の考えた劣悪な理論を切り裂ける鋭利さを持つ刃物である。 この点において、理論家は受容されないのみならず嫌悪されることさえ充分にありうる。 しかも、シェンカーは同時代人に全く親和できない人であった。 忌み嫌われないでいられるほうが不思議である。
このような心理的分析は、シェンカー理論の鋭さを証明するものではないけれど、 加えて上に挙げた諸芸術化の讃辞をも考え合わせるならば、 我々の関心はシェンカー理論の奥に何かが秘められているのではないか、 という方向に向かわずにはいないだろう。 そしてここまでくれば、もうこれ以上私がシェンカーの人格や悲劇 について語ることは無意味である。 少しでもシェンカー理論に興味を持たれた方は、 わずかの時間でも実際の著作を読み、 シェンカー理論に踏み込んで頂ければ、と切に願う。 その時間は決して無駄にならないはずである。



参考文献
ハインリヒ・シェンカー『古典ピアノ 装飾音奏法』音楽之友社
ハインリヒ・シェンカー『ベートーヴェン 第五交響曲の分析』音楽之友社
フルトヴェングラー『音と言葉』白水社 (芳賀訳の新潮文庫版には当該論文は未収録。)
ロマン・ロラン『第九交響曲』みすず書房
ヴァルター・リーツラー『ベートーヴェン』音楽之友社(入手困難)