シェンカー理論用語集
シェンカーは、楽曲解釈をなす上で独自の理論体系を作り上げていった。 いわゆる「シェンカー理論」と呼ばれるのがそれである。 しかし、シェンカーが生前音楽界で忌み嫌われたためか、 或いはこの理論の深遠にして難解な内容のためか ―――おそらくはその両者であろうが―――、 シェンカー理論はアメリカを除けばごく一部の人間にしか継承されなかった。 もし仮に継承されていたとすれば、 シェンカー理論に近づくのは幾分簡単であったろうが、 遺憾なことに我々はシェンカー理論に一から入っていかねばならない。 とりわけ日本においてはシェンカー理論用語の訳も訳者によってバラバラで、 しかもその訳語のいくつかは的を得ていないという悲しむべき状況にある。 以下このページでは、シェンカー理論用語を原語のアルファベット順に並べて 一々の解明を試みるとともに、正確な訳語体系を築くために私なりに選んだ訳語も併せて提示する。 なお、アメリカにおいてシェンカー理論用語がどのように訳されているかは、 SchenkerGUIDE: Glossary を参照されたい。
Fernhören, 遠聴
“Fern”は「遠方」、“Fern”は「聴く」の意味であり、
従って直訳すれば「遠方を聴く」ということになる。
なお、「遠聴」という訳語は恐らくは芦津丈夫に依るものだろうと思われる。
私としても異存はないのでこの訳語を踏襲する。
遠聴については、フルトヴェングラーの詳しい解説があるので
(逆に私はシェンカーが自ら遠聴について語った個所を知らない)、
それを引用することにしたい。
「シェンカーが彼のあらゆる考察の中心に据えたものとして、音楽における「遠聴」の概念がある。
この概念を明らかにするため、私は少しさかのぼって詳しく話さねばならない。
私たちも知るように、すべての生命は順応性にもとづき、有機体生命における順応性の核心とは一つの暗い、しかも絶え間なく働く生き生きとした空間=時間意識である。
この空間=時間意識はすでに乳飲み子の最初の表現にも浸透し、全生涯にわたって持続する。
この意味では、およそ関連を有しないものは存在せず、私たちは、いかなる行為に際しても感情を通してその前後関係を包括的(イムプリーツイテ)に把握しているのである。
私たちはなんらかの仕方で、行為がいかに生起するか、また行為がいかなる結果を招くかを知っている。
この方位づけの能力によって有機的生命が事実上はじめて可能となるのであり、その結果、完全に孤立した現実、生命の連関に組み込まれず、生命によって加工されない現実は、どこにも存在しないことになる。
すべてのものは原因と結果を有している。さらに言うなら、すべてのものが往々にしてその原因を遠方に有し、また遠方の事物を目標にしているように思われる。
原因や結果が遠方に存在することが多いからこそ、人間がこの事実に気づくまでに長い年月を要したのである。
現代のかかる生物学的認識を最初に一貫して音楽に適用したという点に、シェンカーの歴史的な功績がある。
遠聴とは遠い地点、ときには楽譜の数ページにもおよぶ大きな連関を聴取する力、その姿勢であるが、それはシェンカーにとって偉大な古典主義ドイツ音楽を特色づけるものにほかならなかった。
だからこそシェンカーは絶えずこの古典主義音楽から出発し、終止そこに人々の注意を促し、現代流の音楽に対するその有機的な優位を飽くことなしに指摘したのである。
遠聴の喚起という概念によってシェンカーは踏み台を築き、すべての歴史的な趣味、すべてのたんに主観的な趣味の彼方に客観として存在する一つの事実を発見した。
この事実は、それが正しく把握されるとき、現代のさまざまな学問的認識の歴史と同様に、確実に一つの学問的認識となりうることであろう。」
(フルトヴェングラー「ハインリヒ・シェンカー―――一つの時代的な問題」より抜粋(*1))
フルトヴェングラー/芦津丈夫訳『音と言葉』, 白水社, 1996, pp. 213-219.
Urlinie, 根元線
ロマン・ロランは「これを見出したことがベートーヴェンの文献学上、 ハインリヒ・シェンカーの最大の功績だった」(*1) と述べているが、 根元線の発見の意義はロランの言うとおりであり、 音楽理論史上に燦然と刻み込まれるべきものであろう。 この根元線によって、シェンカーが「運命」交響曲第一楽章の解釈を根底から覆したことも、 有名な事実である(*2)。
さて、原語“Urlinie”であるが、 “ur”は「おおもとの」「いちばんはじめの」の意であり通常「原」の語で訳される。 例えば、“Urtext”は「原典」だし、“Urbild”は「原型」である。 一方で、“Linie”は「線」である。 即ち、“Urlinie”はそのまま訳せば、「原線」であるが、 これでは日本語としてあまり理解によろしくないと思われたので吉田秀和に倣って「根元線」と私は訳すことにした。 内容としては、端的に言ってしまえば、 楽曲の深い所を貫いて流れる線を言い表すものであって、 シェンカーはここに芸術作品の有機的一貫性を見出した。 と、こういう説明をすれば、何か漠然とした抽象的な楽曲生成の哲学でも述べているように思われるかもしれないが、 だが事実としてはそうではなく、根元線は実際上の音符を繋ぐ線として楽曲の中に認められる。 下の第五交響曲“Urlinie”に沿って少し具体的に見るなら、 “Urlinie”は第1小節のEsと第3小節のDからまず形成され、 このEs-Dの進行は続く16小節の間にCを通じてHにまで至り、 四度進行を形成することになる。 そして、譜例を見れば明らかであるが、この四度進行は、 第二主題(第63小節以下)の旋律を支える四度進行(Es-D-C-B)へと流れ込んでいく。 展開部以降については解説を省くがこの楽章を貫いてこの根元線は流れている。 詳しい考察については、ハインリヒ・シェンカー/野口剛夫訳 『ベートーヴェン 第五交響曲の分析』(*2)を参照されたい。
“Urlinie”の訳語は既にいくつか提出されている。
1. 「基本線」(野口剛夫訳)
2. 「原旋律」(芦津丈夫訳)
3. 「根元線」(吉田秀和訳)
このうち、1に関しては、 そもそも、辞書を引いて“ur”を語頭に持つ言葉を見ても、 それを「基本」と訳している語はなかったうえ、 「基本線」はドイツ語としてはやはり“Urlinie”よりも“Grundzug”の訳語である感が否めない。 さらに、「基本線」という言葉自体が日常的に軽く使われているから、 総じて考えるにこの訳語は不適切であろう。 次に、2に関しては、“Ur”を「原」と訳しているのは何ら問題ないだろうが、 “Linie”を旋律と訳すのはどうにも容認し難い。 私自身、この訳語の変形たる「源旋律」をしばらく使用していたから、 この批判の矛先は自らにも向かうのだが、それはともかく、 「旋律」と訳してしまうと「楽曲の奥深いところに一つの 根源的なメロディーがある」という理解に達しかねない。 ドイツ語“Linie”は語義としてはあくまでも英語の「ライン」即ち「線」を出ず、 また意味するところも先に見た通り「線」と考えるのが適切である。 したがって、この訳語も承認し難い。 最後に3は、これは“Ur”も“Linie”もうまくニュアンスが訳出されており、 訳語全体としても充分に原語の意図するところが理解されると思われる。 そういうわけで、私はこの吉田訳を採りたい。
*1ロマン・ロラン『ロマン・ロラン全集』24巻, 芸術研究5, みすず書房, 1980, p. 83.
*2ハインリヒ・シェンカー/野口剛夫訳『ベートーヴェン 第五交響曲の分析』, 音楽之友社, 2000.
Ursatz, 原楽理
Zug, 線進行