音楽家名鑑
- 当サイト中に名前の挙がる(もしくは今後挙がるであろう)音楽家を紹介。
順序はファミリーネームのアルファベット順である。
- ソースは、特に断りがない限り、
“The New Grove Dictionary of Music and Musicians”である。
各項目の最後に右下に付せられた名前が、その項を書いた人の名前である。
ただし随所に小さめの文字で付した注記等は、本サイト管理人による。
- 人物名、地名等の固有名詞は、既にある程度定まった日本語カタカナ表記がある場合、
カタカナ表記を先に出したあとに括弧内に原語表記を付すことにし、
そうでない場合は、アルファベットによる表記をそのまま記すに留めた。
Riemann, (Karl Wilhelm Julius) Hugo(フーゴ・リーマン)
(1849/07/18 ゾンダースハウゼン, ドイツ〜1919/07/10 ライプツィヒ)
ドイツの音楽学者。
最初、父親のRobertから音楽教育を受けた。
父親は地主であり公務員である一方、才能あるアマチュア音楽家でもあって、
作曲したオペラ“Bianca Siffredi”がソンダースハウゼンで1881に上演されている。
音楽理論の教師は、ゾンダースハウゼンのカペルマイスターだったHeinrich Frankenbergerと、
二人のピアニストAugust Bartel及びTheodor Ratzenberger(リストの弟子)だった。
ゾンダースハウゼンとアルンシュタットでギムナジウムに通い、
Rosslebenの修道院付属学校で古典語と古典文学を学んだ。
1868年にベルリン大学に行き、
法学、ドイツ哲学、歴史学を専攻した。
兵役にも従事せねばならなかったため完全には研究に専念できなかったが、
軍隊にあってもなお、彼はテュービンゲンにて哲学を研究した。
また暇をみつけては詩を書いた。
詩作は9歳の時からたゆまず続けてきた習慣だった。
普仏戦争さえなければ、彼は二巻からなる詩集を出版していただろう。
BeaumontとSedanで戦い、パリの包囲攻撃に5ヶ月間従事したが、
その間はなんとかピアノを弾く時間を取ることができた。
連隊付きの楽団のリハーサルに参加し、
そしてまさにこの時に音楽に専念する決心をした。
<続>
Louis, Rudolf(ルードルフ・ルイ)
(1870/01/30 シュベッツィンゲン, ドイツ〜1914/11/15 ミュンヘン, ドイツ)
ドイツの音楽理論家。ジュネーヴとウィーンで哲学を学び、
またウィーンでは「音楽における衝突(conflict in music)」についての論文で1893年に博士号を取得した。
その後、ドイツのカールスルーエ(Karlsruhe)において、
クローゼ(Klose)のもとで作曲を、Mottlのもとで指揮を始めた。
リューベックとランドスートで指揮者に任命され、
1897年には音楽学者として働くためにミュンヘンへ移った。
H. Porgesの後を継いで“Münchner neuesten Nachrichten”の評論家となるやすぐに、
影響力をもち、物議をかもした。
彼の主観的な見解が、反論と批判を喚起したのである。
彼は熱烈にリストとブルックナーを賞賛する一方、
ブラームスを無視し、レーガーを非難した。
ブラームスやレーガーの作品を演奏することはめったになかった。
ベルリオーズとブルックナーについて書いた彼の評論は、
主題に対する深い知識と著しい偏向性を示している。
彼とトゥイレ(Thuille)の共著である『和声学(Harmonielehle)』は、
リヒャルト・シュトラウス(Richart Strauss)に到るまでの作品を扱った、
和声の構造と分析についての実践的教本である。
ALFRED GRAND GOODMAN
Schenker, Heinrich(ハインリヒ・シェンカー)
(1868/06/19 Wisniowczyki, ガリツィア, ポーランド〜1935/01/13 ウィーン, オーストリア)
(注. ガリツィア(Galicia)はヨーロッパ中東部、カルパティア山脈の北斜面と
Vistula、Dniester、Bug、Seret川の上流域。
大戦間はポーランド領、現在はポーランドとウクライナにまたがる。
シェンカーは、このガリツィアの“Wisniowczyki”という所に生まれたらしいが、
“Wisniowczyki”とは一体どこにあるのか不明である。
もしご存知の方があればお知らせいただきたい。)
ポーランド生まれ。
オーストリアの音楽理論家。
幼いときから音楽的才能は顕著で、
若くして帝国の奨学金を受けた。
シェンカーは、この奨学金によってウィーンに行き、
音楽学校でブルックナー(Bruckner)に師事し、
また大学で法学の学位を取得した。
彼はウィーンでリートの伴奏者・室内楽奏者・批評家・編集者として有名になった。
ブラームスは、彼の作曲に感銘を受け、
自分の楽譜の出版者であるジムロック(Simrock)に推薦した。
シェンカーは一度も音楽学校や音楽大学で教鞭を取らなかったが、
ピアノと音楽理論の個人教授としての彼の名声は急速に高まり、
生徒として多くの卓越した音楽家をもった。
その中にはJohn Petri Dunn、
ヴィルヘルム・フルトヴェングラー(Wilhelm Furtwängler)、
アントニー・ファン・ホーボーケン(Anthony van Hoboken)、
Oswalt Jonas、
Felix Salzer、
Otto Vrieslander、
Hans Weisse等がいる。
音楽理論に関するシェンカーの著作はとりわけアメリカにおいて影響を持ち、
それは今なお続いている。
(注. 「帝国の奨学金を受けた」というのは“he was awarded an imperial scholarship”
を直訳したのだが、“imperial”がどこの「帝国」を指すのか定かでない。
1772〜95年にわたる三度のポーランド分割のため、
シェンカーの生まれた当時、
ポーランドは独立した国家として存在しておらず、
ロシア・プロイセン・オーストリアの属領であった。
ポーランドが再び独立国となるのは第一次世界大戦終了を待たねばならない。
また、ポーランド分割前の国家形態が「第一共和制」と呼ばれ、
第一次世界大戦から第二次世界大戦勃発までのそれが「第二共和制」と呼ばれることは、
「帝国の奨学金」をポーランドが与えたと認識することをさらに躊躇させる。
おそらく、ここで「帝国の奨学金」というのは、
「ポーランドを支配していた帝国」の「奨学金」を指すのだろうが、
果たしてどこの帝国がそれを与えたのかは、私の浅薄な歴史的知識では判断をしかねる。
識者の見解を待ちたい。)
音楽的傑作とその創造過程に対するシェンカーの深い関心は、
1906年に“Neue musikalische Theorien und Phantasien&ldquoの第一巻『和声法(Harmonielehle)』を出版し、
シェンカーは自らの理論的構想を考証し始めた。
<続>
Thuille, Ludwig(ルードウィヒ・トゥイレ)
(1861/11/30 ボルツァーノ, チロル, イタリア〜1907/02/05 ミュンヘン, ドイツ)
オーストリアの作曲家。
フランス南東部サヴォイ地方の家柄の出身。
アマチュア音楽家だった父から最初の音楽教育を受けた。
両親の死後、1872年に、オーストリア北東部のクレムス大聖堂の義理のおじのもとに移り住んだ。
彼はその地でベネディクト会の大修道院の聖歌隊員として仕えて、
ヴァイオリン・ピアノ・オルガンを学び、良い第二の音楽教育を受けた。
1876年、指揮者兼作曲家のマテウス・ナギラー(Matthäus Nagiller)の寛大な未亡人が、
彼をインスブルックへと連れて行き、
一般教育を受けさせた。
また音楽理論・ピアノ・オルガンをヨゼフ・ペンバウアー(Joseph Pembauer)のもとで学ばせた。
1879年にはペンバウアーは、この才気に満ちた生徒を、
ミュンヘンの王立音楽学校(Königliche Musikschule)のヨゼフ・ラインベルガー(Joseph Rheinberger)に託した。
そこでも彼は引き続き(カール・ベルマン(Karl Bärmann)のもとで)ピアノを学び、
1882年に優等で卒業した。
作曲家の学生としては、トゥイレは音楽的には保守派で、
ウィーン古典主義の熱烈な賞賛者であった。
また、ラインベルガーのアカデミズムによっても厳しく鍛えられた。
しかしながら、アレクサンダー・リッター(Alexander Ritter)との交際を通じて、
突然、彼の様式に決定的な変化が生じた。
リッターは気性の激しい人物であり、
トゥイレと彼の少年時代の友人であったリヒャルト・シュトラウス(Richart Strauss)を、
後期ロマン主義様式の時代におけるオーケストラの色彩画家へと転向させた。
リッターはトゥイレの注意をワーグナー(Wagner)のような大規模なオペラへと向けさせ、
そしてまたこの若い作曲家を、大胆な和声的発想を養うよう奨励した。
その後一年間、個人レッスンを行う。
1883年には王立音楽学校で教鞭をとる招きを受け、
加えて、フランクフルト・アン・マイン・モーツァルト基金(Frankfurt-am-Main Mozart Foundation)
からは作曲の奨学金も受けた。
彼はすぐに室内楽ピアニスト・伴奏者・作曲家として賞賛を獲得し始めた。
1890年にミュンヘンで教授の地位に就き、
その一年後には
ミュンヘン・リーダーホルト(Munich Liederhort)という当時高い評価を受けていた男声合唱団体
の指揮者になった。
19世紀の終わりまでに、ミュンヘンの音楽的生活における指導的人物となり、
王立音楽学校の音楽理論と作曲の教授として強く大きな影響力を発揮した。
彼の著名な弟子の中には、
エルネスト・ブロッホ(Ernest Bloch)、ヴァルター・クルヴォワジエ(Walter Courvoisier)、
ヴァルター・ブラウフェルズ(Walter Braufels)、
ヘルマン・アーベントロート(Hermann Abendroth)がいる。
作曲家としてのトゥイレの卓越性は、
同時代人のほとんどが室内楽というジャンルを無視していた時代にあって、
彼がこのジャンルに教養を持っていたことによる部分がある。
初期の作品であるゼクステット(Sextet op. 6, 1889)は、
巧みな楽器のバランスと全体を覆う叙情性を合わせもっており、
ピアノと弦楽器の能力を見事に引き出した価値の高いものである。
この作品はすぐに成功を収めた。
しかしさらに一層個性的かつ激しい作品は、
成熟した技法で書かれたピアノクインテット(Piano Quintet op. 20, 1901)である。
また彼は、同時代人の多くとは異なり、気まぐれなテーマを題材にオペラを書いた。
最初のオペラ“Theuerdank”(1895)は、
リッター(Ritter)のテクストを使用したものだったが、
これは不成功に終わった。
しかし、第二作“Lobetanz”(1896)はリガからウィーンまでの広範囲で演奏され、
さらにはニューヨークでも演奏された。
この作品はメロドラマと音楽劇と喜劇との交じり合ったもので、
ビールバウム(O. J. Bierbaum)のリブレットが稚拙である一方で、
トゥイレは巧みに作曲している。
次には、おとぎ話“Gugeline”のテクストを使用したオペラを書いた。
これもまた活き活きした詩的な音楽だが、
リブレットは一層劣悪である。
注意が行き届き、穏健さをもっていることがトゥイレのスタイルの特徴であり、
またこの点で、この時代の他のもっと有名な作曲家の音楽とは異なっている。
もっとも彼の和声の使用法はしばしば大胆であるけれど、
生来の保守主義ゆえに、レーガー(Reger)のような極端な実験を試みることは避けられている。
また彼は、創意に富み、かつ時には燦然たるオーケストレーションをしつつも、
マーラー(Mahler)のような急進的な革新は避けている。
シュトラウス(Strauss)が書いたような交響詩にも心を向けなかった。
トゥイレの音楽の一番の魅力的な特徴は、
構造上の明瞭さと、曲に好感をもたせる旋律的な創意である。
トゥイレの『和声学(Harmonielehle)』(1907)は、
ルードルフ・ルイ(Rudolf Louis)と一緒に著されたものだが、
彼の死後長く規範的な著作としてとどまった。
この教本は二部に分かれていて、
第一部は全音階(diatonic)、第二部は半音階(chromatic)及びエンハーモニー(enharmonic harmony)
に当てられている。
また、慣習的なやり方にのっとって垂直方向の和声的感覚のみで和音を捉えるのではなく、
水平方向の対位的な織り合わせも含めて和音を考慮している。
EDWARD F. KRAVITT